それは、何て事のない日常風景。
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梅雨を目前に控えた初夏の候。
瑞々しく色づいた新緑の香りが風に乗って運ばれてくるのを感じながら、少しだけ傾いた陽を背中に受けて、私たち二人は家路をゆっくりと歩いていた。
隣には、いつも以上に楽しそうな表情で、ぱたぱたと歩く真琴の姿。今日はいい天気だったから、お弁当を作ってピクニック気分でものみの丘を訪れていたのだけれど、そんな些細な休日の過ごし方が、真琴にとって楽しい出来事だったというのなら、こんなに嬉しいことは無いと思う。
「〜〜♪ 〜♪」
鼻歌を歌いながら、くるくると回りながら、楽しそうに歩く真琴。
「真琴。そんな風に歩くと転びますよ」
そう言いながら、それでも私は、真琴を咎める気など全く無かった。
真琴の楽しそうな様子を見ていると、私にまで楽しい気持ちが伝染してくるような、そんな気がしていたくらいだったのだから。
「美汐もやってみてよ、すっごい楽しいよ!」
言いながら、真琴は両手を広げてくるくると回る。まるで踊るような、軽やかなステップ。思わず微笑む私。
私の顔を見て、真琴は幸せそうな笑みを浮かべて、それから、私の手をぎゅっと握った。強く手を引かれて、思わず前につんのめる私。
「ちょ、ちょっと真琴、あぶな―――」
「ほら、美汐も!」
そう言いながら、真琴は私の手を取って、またくるくると回り始める。そして、ぐるぐると振り回される私。
「きゃああああああああっ!?」
私が悲鳴を上げるのも構わずに、真琴は楽しそうに私のことを振り回してくれる。
それはもう、すっかり慣れてしまったいつもの光景。
―――と、不意に真琴は、何かに躓いたようにバランスを崩した。
「……あぅ?」
前のめりに倒れそうになる真琴。私は慌てて、真琴を助けようと手を思い切り引っ張って。けれど、遠心力が掛かった私の身体は、真琴の倒れそうな身体を支えることはできなかった。
どてん。
結局は真琴に巻き込まれるようにして、二人一緒に転んでしまう。
「……あぅぅ……」
呻き声を上げる真琴。私は慌てて立ち上がると、真琴の身体を抱き起こした。
「大丈夫ですか真琴? 怪我は?」
「えっと……うん、だいじょうぶ」
そう言うと真琴は、ぴょんっと勢い良く立ち上がって、それから、
「あぅ……ごめんね、みしお?」
恐る恐る、上目遣いでそう訊いてくるものだから。
私は思わず抱き締めてしまいたくなる衝動を必死に抑えながら、静かに溜め息をついて、
「いいんですよ、真琴。次からは気をつけてくださいね」
そう言って、少し汚れてしまった真琴の顔を右手でぐいっと拭った。
「……今日は随分歩きましたから汗をかきましたし、ずっと外にいて身体も汚れてしまいましたから。帰ったらすぐにお風呂にしましょうね、真琴?」
「うんっ!」
笑顔で頷く、真琴。
この笑顔が見られただけで、些細なことはどうでもいいと思うようになってしまった私は、そんな自分の心境の変化に驚きながらも、決して嫌だとは思わない。
だってこれも、真琴が私にくれたものだから。
* * *
そんな帰り道の途中。
「ね」
真琴が不意に足を止めて、私の袖をくいと引っ張った。
「どうしましたか、真琴?」
私が真琴を見ると、その顔に浮かんでいたのは、驚きの表情。それから真琴は、右斜め前方に指を向けて、
「みしおー、あれはなに?」
真琴が指を指している方向を見ると、そこには大きな煙突が立っている。
少しずつ日が落ちてきた夕暮れの町に映えるその姿は、紛れも無く―――。
「あれは、銭湯というものですよ」
「せんとう? 誰が誰と戦うの? 祐一?」
「“戦闘”ではありません。“銭湯”です。……そうですね、大勢で入る大きなお風呂、ですよ」
私がそう説明すると、途端に真琴は、大きな目をいつも以上に輝かせて、
「大きなお風呂? そんなに大きいの? 美汐と一緒に入れるくらい?」
「ええ、もちろん。私と真琴だけではなくて、もっとたくさんの人数で入れるくらい大きいお風呂です」
「本当に? じゃあ、名雪も秋子さんも祐一も、みんなで入れるのっ?」
キラキラと輝く真琴の瞳。私はこほん、と咳払いして、
「相沢さんは殿方ですから別ですが……そうですね、みんなで入れますよ」
「本当っ!? へぇーーーーーーーーっ」
まるで楽しいことを見つけたかのように笑う真琴。そんな真琴を見て、私は、
「……それじゃあ、行ってみましょうか?」
瞬間、真琴ははち切れんばかりの笑顔を私に向けた。
「やったー! 美汐、大好きっ!」
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残念なことに、名雪さんの家は留守にしていた。そのことは私にとっても残念だったし、真琴にとっては言わずもがなだろう。
けれど、真琴はそれでも銭湯が楽しみで仕方が無いらしかったから、私たちは予定を変更することなく、二人だけで銭湯へと向かうことにした。
楽な格好に着替えて、サンダルを突っかけて、洗面器にお風呂道具を入れて、背中には下着の入ったリュックサックを背負って。真琴は、先ほどものみの丘に出掛けた時と同じか、それ以上の笑顔で、銭湯への道程を軽やかに歩く。
その隣を歩く私の手を、しっかりと握って。
私の家から歩くことしばし。私たちは、銭湯の暖簾の前へと到着した。
「わぁ……!」
目を輝かせる真琴。みんなで来れなかったことは残念だったけれど、そんな残念さは、銭湯に到着した時点ですっかり霧散してしまったようだった。私はこっそりと安堵の溜め息を吐くと、
「さあ、入りましょうか」
「うんっ!」
暖簾を潜った真琴は、まずその大きな脱衣所に驚いていた。あちこち走り回っては、興味深そうにきょろきょろと視線を動かしている。
「あまり走り回ると、また転びますよ、真琴」
嗜めるように言ってから、私は番台に料金を支払って、それから手近の脱衣かごを弄っていた真琴を見た。
「……どうしたのですか、真琴?」
「みてみてみしおっ! これこれっ!」
真琴はそのかごの中から、一枚の布を取り出した。
「すっごいおっきいよ、これっ!」
そう言って自分の胸に当てて見せたのは、大きなサイズのスポーツブラ。
「おっきいねこれ! 真琴の胸じゃあぶかぶかー!」
真琴の胸でぶかぶかなのだったら、私が着けたらさぞかし……。
―――こほん。
「……それはいいですから、早く服を脱いで。先に行きますよ、真琴?」
「あっ、ちょっと待って美汐、今脱ぐからっ!」
スポーツブラを放り出して、真琴が慌てて服を脱ぎだした。私は軽く嘆息して、真琴が脱ぎ散らかした服を片付けながら、先ほどのブラをちらり、と見る。
思わず、溜め息。
「かんりょー! ……あれ、どうしたの美汐?」
「……いえ、何でもありません」
真琴にそう答えてから、私はそのスポーツブラを、元のかごへそっと戻しておいた。
「では行きましょうか、真琴」
「うんっ!」
元気良く答えると、真琴が浴場の扉をがらがらと開けた。同時に、
「おーーーーっ!」
歓声を上げる。
何かに感動したかのように大きく目を見開いた真琴は、次の瞬間には湯船へと駆け出していた。
「ちょっと、待ってください真琴っ」
「うわーーーーー……わ?」
湯船に飛び込もうとする真琴の腕を慌てて掴む。間一髪。
「―――真琴」
思わず知らず、声に怒気が混じる。そんな私の感情に反応するように、真琴がびくっと身体を揺らした。
「……あぅっ」
「そこに座りなさい」
「あうぅ……」
その場でぺたんと正座する真琴。
私はこほんと咳払いをして、
「いいですか、真琴。ここは銭湯です公衆浴場なのです。家のお風呂ではないのですから他にも利用している人はいるのですよ。周りを見てください私たちだけではないでしょう。それがなんですか、湯船を見るや否やいきなり駆け出し、あろうことかいきなり飛び込もうとするなんて。もし真琴が湯船に飛び込んでいたらどうなっていたと思いますか考えるまでも無いでしょう。まず湯船のお湯が大量に流れ出してしまいますし、しかも真琴は今日外出してきて身体が汚れているのですから、真琴が何も考えずにいきなり湯船に入ったら浴槽内のお湯が汚れてしまうことは自明の理でしょう。あくまでも大勢で利用する公共の場なのですから、いち利用者として最低限のマナーは守らなくてはならないのです。楽しいのは分かりますが、これからは場をわきまえて行動しなくてはだめですよ。わかりましたか真琴?」
「……あぅ……」
真琴から返ってきたのは、気の抜けたような生返事だったけれど、たぶん分かってくれただろう。私はそう思っておくことにした。
「仕方ありません。折角銭湯に来たのですから、私が銭湯の掟を教えてあげます。教えますから、真琴は私の言うことをしっかりと聞いて下さい。いいですか真琴?」
「……あぅ……」
やはり生返事を返して寄越す真琴。私はしばらく逡巡して、それから軽く嘆息すると、
「マナーを守るのであれば」
なるべく優しくそう言って、真琴に笑顔を向ける。
「折角の銭湯ですから、楽しみましょうね、真琴」
「! うん!」
たちまち笑顔になって、真琴が大きく頷いた。
「それでは入りましょうか。私と同じようにしてくださいね。まずは、桶でかけ湯をします」
私は桶で湯船のお湯をすくうと、自分の身体に静かに掛ける。
「こう?」
「そうです。そんなふうに、『まずは、かけ湯をして身体の汗と汚れを流してから入ること』が大事です。そしたら、次に―――」
片足を湯船の中に差し入れる。少し熱めのお湯が心地良い。
「こうやって『片足から少しずつ、ゆっくりと静かに湯船に入る』んです。私たちの他にも、湯船に浸かっている人がいますから、絶対に迷惑にならないようにしてください。……どうですか、真琴?」
「あぅ……熱い……」
顔を歪める真琴。
「最初は熱いかも知れません。でも、『なるべく水で薄めない』ように。この熱さが好きな人もいますからね」
肩まで湯船に浸かって、大きく息を吐く。
嗚呼、極楽。
一方、まだ少しだけ顔を歪めたままの真琴は、
「んー……美汐は?」
「そうですね、私もこの熱さは好きです。最近は温めのお湯に半身を浸ける半身欲が主流ですが、こうやって熱いお湯に肩まで浸かって、百まで数えるのが一番です」
私がそう答えると、真琴は悪戯っぽく笑って、
「美汐……それって、ちょっとおばさんくさ」
「何か言いましたか真琴?」
「……ううんなんでもないよ?」
視線を送ると、真琴は口を噤んで明後日の方向に視線を泳がせた。思わず嘆息する私。
まぁ今日のところは許しておきますが。
でも、次はありませんよ、真琴。
そんなことを考えながら、私は湯船の中に口元まで沈み込んだ。身体の芯まで暖かくなるような感覚。日頃の疲れも、何もかもが、熱いお湯の中に溶けていくような感覚。味わいながら、私は隣に浸かる真琴を横目で見た。
その真琴は熱いお湯にも慣れたようで、気持ちよさそうに目を細めている。何処となく微笑ましいその表情に、私は思わず相好を崩した。
「……さて」
心の中できっちりと百まで数えたところで、私は立ち上がった。隣の真琴も、私に倣って静かに立ち上がる。
「そろそろ身体を洗いましょうか」
「うんっ」
湯船から出て、それから私たちは、二人並んで洗い場に座る。
「そう言えば、美汐」
「はい?」
私の真似をして手拭いに石鹸を泡立てながら、真琴は、まるで何かとても面白いことを思いついたかのような顔で、私を見た。
「今日は美汐が、真琴に銭湯の掟をいろいろ教えてくれたけど」
「はい」
「もう一つ、あるよね?」
石鹸を泡立てた手拭いを持った手をわきわきと動かしながら、真琴がこちらを向く。
―――嫌な予感。
「前に漫画で読んだんだ、こういうおっきなお風呂ですること、それは……」
悪戯っぽく笑って、
「『背中の流しっこをすることっ!』」
「いえ、それは結構です……って、わきゃーーっ!?」
真琴の手が、私の身体に、触れ、て―――?
「ちょ、まこ、そこ、そこは違……」
「んー?」
「あ、ん、そこはだめ、だめですって、きゃあああっ!?」
そこは背中ではないし、まして人に洗ってもらうようなところでもなくて、
「ここ? ここがいいの、みしおー?」
「きゃあああああああっ! いやあああああああっ!」
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「はー。楽しかったねえ、美汐?」
満足そうな微笑を浮かべて、真琴が言う。それとは対称的に、私は少しだけぐったりしていた。
最後の方、私はずっと嬌声を上げていたような気がする。そもそも、真琴にされたあれは背中の流しっこではなくて、ただ全身をくすぐられていただけのような気がしてならない。最初から最後まで、明らかに真琴は面白がっていたのだし。
―――これは、あとでお仕置きが必要ですか、真琴?
私が内心でこんなことを考えているとはおそらく露知らず、真琴は無邪気な笑顔を浮かべていた。
「ね、美汐。また行こうね!」
そんな真琴の笑顔にすっかり毒気を抜かれてしまった私は、その言葉に曖昧に頷いてから、ふと。
こんな日常がいつまでも続いていけばいいと、心の底から願ってしまって。
何でだろう、こんなことを思ってしまうのは。そもそも私は、もう既に十分に満たされた。これ以上は望むべくもない。
ああ、けれど。
二人で家路を歩きながら、考えることがある。
あの冬の日々が過ぎ去って、もうどれくらいの時間が過ぎ去っただろう。私たちはこうして、平穏な毎日を過ごしている。それはあまりにもありふれた、平穏な、名前をつけるまでもないような物語。
あの日々があって、今の物語がある。そしてこれから、この物語の結末がどうなるか、今の私にはまだわからないけれど―――。
でも今は、結末なんて知らない。
せめて、この名も無いお話を紡ぎ続けていきたいと、今はそれだけを心から願う。
「? どうしたの、美汐?」
はっとして、私は真琴の顔を見た。不思議そうに私を見る真琴の顔を見て、私は、思わず笑顔になる。
「……いえ、なんでもないんですよ」
さあ、帰りましょう。そう言って、私は真琴に手を差し出した。きゅっと、二つの手が繋がる。
さあ、帰りましょう。私たちの家へ。
さあ、紡いでいきましょう。今日から先、いつまでもいつまでも、名前も無いこのささやかな物語を。
Kanon まこみしSS
(感想お待ちしております。)